ベンジャミン・バトン 数奇な人生(映画)。
2月9日に夫と劇場へ見に行きました

以下、感想を少し。(ネタバレ注意)

愛は永遠ではない。
愛は永遠。

命は永遠ではない。
命は永遠。

人は老いて醜くなる。
人は老いても美しい。

若いということはすばらしい。
老いるということはすばらしい。

生きるとは何か。
死ぬとは何か。

そうしたテーマを
数奇な運命を持って生まれた、
ベンジャミン・バトンを題材に描いたように思う。

ベンジャミン・バトンは、
老いて生まれ、成長するとともに若返っていくのだから、
題材(象徴)として格好のように思う。

もうひとつ、この映画では「象徴」とも言えるものがある。
それは、駅の大時計だ。
腕のよい職人が作り上げた時計。
その時計は、針が逆に回り、時を逆に刻むのだ。

時計職人は、
時計が逆に回れば、時間が戻るだろう、
時間が戻れば、戦争で死んだ息子が帰ってくるのではないか、
そうした願いを抱いて、その時計を作った。

もしも時間が戻ったら。
もしも。
もしも。
(死んだ息子は決して帰ってきはしないのだが)

もしも。

ベンジャミンの恋人、デイジーは、交通事故にあい、
世界的バレリーナという地位を失った。

その交通事故は、あまたの偶然の蓄積で生じた。
もしも、そのあまたの偶然が、たったひとつでも異なっていたならば、
その交通事故は発生せず、
デイジーは、足を複雑骨折せずにすんだ。

もしも・・・。

映画の中で、交通事故の「もしも」は象徴的に扱われた。
美しい映像で、もしも、もしも、と繰り返された。

しかし、後にベンジャミンはデイジーにこう言うのだ。

「もしも交通事故にあわなかったとしても、
トップバレリーナとしての地位は(年齢的に)長く保てるものではない。
遅かれ早かれ、君は引退していたのだ」
と。

永遠に、トップバレリーナでいることはできない。
永遠はない。

対照的に、
ベンジャミンとデイジーの、永遠と思われる愛・・・。

物語の終わりで、
象徴たる大時計は、倉庫のような場所にあった。
大時計は、駅で長い時を刻み、
引退してなお美しく、時を刻んでいた。

ベンジャミンの「日記」は、娘に継がれ、
おそらく娘は、その子どもに譲るのであろう、
「あなたのおじいちゃんの不思議な人生よ」
と。

ベンジャミンは死んだが、彼の人生は彼の日記の中で生き続ける。

命は永遠ではない。
しかし、命は永遠・・・。

いずれも真実なのだろう。

感想

167分。
夫には長く感じられたみたいだが、わたしには長くなかった。
アトラクション的な要素はなかったが、おもしろかった。
いろいろと考えさせられた。

映像技術

実年齢は45歳のブラッド・ピット。
老けさせる技術はともかくとして、
ティーンに見えちゃうのはすごい。
肌の色、はり、つや、透明感、
目の輝き、幼さの残る表情など、どう見てもティーンだわ。

横顔のシルエットで、「若さ(あどけなさ)」が表現できるんだ、というのも発見。

若く見える、と、若いは、明らかに違うのだと確信した。

若さと老い

十数年後の再会で、デイジーの体の線は、
彼女が恐れていたように、崩れていた。

それなりに美しく見せることもできるだろうに、
崩れていることをわざと強調するかのような演出だった。
下着からはみでた、肉のたるみ。

トップバレリーナだったころ、彼女は
「体の線が大事なのよ」
と自慢していた。
自慢するほどに、完璧に美しかった。

長い時間の積み重ねで少しずつ崩れていくのだろうが、
観客は、
「”ついさっき”、あんなにきれいだったのに・・・」
と、愕然とする。

愛と現実

だが、ベンジャミンは、
デイジーが美しいから愛していたわけではなく、
たとえシワだらけになろうとも、
体の線が崩れようとも、
その気持ちには変わりがないのだ。

観客は、そう確信しただろうと思う。
観客に、そう確信させたかったろうと思う。

愛し合っていながら、別れて暮らすことを選ぶ、ふたり。
ふたたびベンジャミンと出会い、彼の最期を看取るデイジー。

見た目と中身

老いた肉体で生まれたが、ベンジャミンの心は若かった。
時とともに肉体は若くなってゆくが、
ベンジャミンは人生からさまざまなことを学び、老成してゆく。

ベンジャミンは、見かけだけが人と違うだけで、中身は他の人と同じなのだ。

「僕は変わらない。僕はいつでも僕だから」
ベンジャミンはそう言っていた。

大切なのは、中身なのだ。
外見は、「魂の入れ物」に過ぎない。

(気がむいたら続きを書きます)